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京都御苑内から豊臣秀吉晩年に築城され間もなく廃絶、「同時代史料はあるが遺跡も地名も伝承地も不明」だった「新城」の石垣・堀が発見されました。
京都御所の周辺には国史上重要な史跡なのに廃棄後の破却も徹底、正確な場所も遺跡も断片的にしか判らない城館がいくつかあり、秀吉の「聚楽第」さえも最近の断片的な発掘調査の集積でようやく平面が明らかになってきた所です。
戦国末期の足利将軍邸は現在の京都御苑の南西、現平安女学院の付近で、「武衛陣町」の町名がある付近でした。武衛(兵衛督・斯波義将)の陣の所在地でした。
永禄八年(1565)5月19日に将軍足利義輝が三好氏に暗殺された地です。剣術に長じた武将だったので自害前に大いに戦ったという伝説もあります。
さみだれは露か涙かほととぎす 我が名をあげよ雲の上まで 『続応仁後記』の伝える足利義輝辞世。享年30.
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