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平安時代も中期に近い寛和二年(986)、右大臣・東三条殿藤原兼家とその子、粟田殿藤原道兼は時の帝、花山天皇を山科の元興寺で出家退位させ、兼家が外戚である懐仁親王を次の帝に据えます。
『大鏡』には粟田殿に導かれ御所を抜け出した花山帝の行列が安倍清明の館の前を通ると晴明が「天文に帝王退位の相が出た、式神一人すぐ内裏へ参れ」と命じる声が聞こえ、また鴨川の堤あたりで
「東三条殿はもしさることにや(政敵が粟田殿も出家させてしまう)したまふとあやふさに、さるべくおとなしき人々、何がしかがしといふいみじき源氏の武者たちこそ御送りに添へられたりけれ。京のほとりはかくれて、堤の辺よりぞうちいでて参りける。寺などにてはもしおして人などやなしたてまつるとて一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける
とあります。この源氏の武者とは多田源氏の源満仲、その子源頼光とその配下と考証されています。摂関政治の確立期に、一方では武士団が力をつけつつあった時代です。
花山帝出家後、懐仁親王ご即位、兼家は関白・太政大臣となり改元、「一条天皇の永延(987-989)」となります。 ご存じ三条小鍛冶宗近の作刀した時期です。鴨川をこえ粟田口を通り山科に向かう行列を警護していた武家源氏の武士も三条付近で作られた太刀・刀を帯びていたのでしょう。
兼家の関白職は子の道兼に受け継がれますが、就任直後に急死、道兼の弟藤原道長が天下を握り、「この世をばわが世とぞ思ふ・・・」World is mineと詠む摂関政治の全盛時代となります。
日本刀の技術が完成されたとされる時代にはこういう背景がありました。
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