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江戸時代の元禄13年12月(西暦では1701年1月)に長崎で、長崎会所の役人と佐賀藩深堀領の武士が小者の喧嘩が元で争いになり、多数の死者を出した「深堀事件」或いは「長崎喧嘩」と言う騒動がありました。
小者の争いから会所の者が深堀の屋敷に乱入して暴行、負傷した深堀三右衛門が紫原武右衛門ら12人で長崎会所に討ち入り、暴行を指揮していた高木彦右衛門を討ち取って首を取り、責任を取って直ちに切腹して果てた、という事件です。幕府は双方の関係者十数人に切腹、斬首、流罪を命じて事件は収束します。
この話が『日本刀及日本趣味』誌に「刀剣余話・武士道叢談」として紹介されていました。雑誌の性格上日本刀での斬り合いが中心でしたが、著者は副島蒼海(種臣)の説として、元禄15年の赤穂浪士の吉良邸討ち入りはこの事件に感憤興起(かんぶんきょうき)して起きたとし、最後に『葉隠』の、赤穂浪士も延引せず直ちに討ち入りし、本懐を遂げたら泉岳寺で切腹していれば完璧だったのにという批評を載せていました。
大阪の陣から85年ですがまだ武士には尚武の気構えが残っていたのでしょう。
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