|
江戸時代初期、滅亡した武田信玄の遺風だとして「武田流軍学」が広まり、『甲陽軍鑑』『信玄全集』などが出版されると上杉関係者も『川中島五度合戦記』などを発表して負けてはいないと反論します。その集成といえる『北越太平記』は上杉謙信・景勝二代の事跡を記録し、川中島の戦いなどの越後側基本文献になっています。ただし合戦の記録は後世の潤色が多く、『甲陽』同様信用のおけないところが多いそうですが。
その『北越太平記』の中に上杉家臣伝があり、竹俣三河守朝綱の項目に 「朝綱の刀に栄誉の霊剣があり謙信に献上した。備前兼光の銘があり竹俣兼光と号し謙信のお気に入りであった。弘治二年の川中島合戦で信玄の側近に手にした鉄砲もろとも真っ二つにされた遺骸があり甲斐では謙信の竹俣兼光に斬られたのであろうと噂された。 この刀を都に研ぎに出し、戻ってきた刀を見るとハバキ元の近くにあった小さな穴がなくなっており贋作とすり替えられたと判明した。直ちに石田三成が詮議しすり替えの関係者12人は秀吉の命令で磔になった。 この刀は秀吉に献上され、秀頼に伝わった。大坂落城の時持ち出されたと言うので和泉・河内二国に金三百枚の懸賞を出して探したが見つからなかった」 とし、更に「越後には名剣が多い」として仙台伊達家に伝わった宇佐美長光、本庄繁長に伝わった本庄正宗、米沢吉光なども解説していました。
刀剣入門書によく出典を示さず引用されているエピソードが多いのですが、これが出典なのでしょうか?これも何かの本の引用なのでしょうか。分かりません。
|
[修正]
[削除]
|