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秋の文化財公開で東山祇園の近く、建仁寺境内の霊源院を見学してきました。
一休禅師が若い頃修行した寺というので「祇園一休寺」と称して画像や墨跡を蔵しています。見学時には「一休朱太刀像」が初公開されていました。曲□(きょくろく)に座した一休和尚の右(向かって左)に長大な朱鞘の野太刀が置かれています。
堺に布教の時この太刀を持ち、「僧侶が武器を携帯するとは」、と非難されると「これは木太刀じゃ。抜くことも切ることもできぬ。殺人も活人もできぬ未熟な禅僧の如し」と、当時すでに形骸化しつつあった臨済禅を批判したのだとか。
この図のように柄を下にして立てかけるのが野太刀の正式な置き方などでしょう。右側に置くのは一般の刀と同様抜き打ちが出来ない位置です。有名な図で、一休和尚終焉の地、酬恩寺などにも同様の画像があります。
写真の出ている集印帖用のカードを求めましたら見学の日付と「大丈夫 心配するな なんとかなる」という文が記入されていました。 晩年京都大徳寺の住職となり応仁の乱の焼亡からの再建に尽力した一休の遷化後、財務の行き詰まりで困惑した大徳寺の僧たちが「禅師が亡くなるとき『愚僧の死後、寺に一大事が起きたら開け』と遺された封書があった」と開封したら「大丈夫 心配するな なんとかなる」と書いてあったとか。僧たちは大笑し、元気を出して再建を続けたと。まあ後年に出来た「一休さん伝説」の一つなのでしょうが。
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