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長野県駒ケ根市の光前寺に石仏を拝観に行った時、境内の説明板に「伊達政宗」の字が見えましたので驚いて読んで見ましたら、「大坂の陣で駒ケ根付近の領主千村氏の家臣の三男・四男11人が大坂方に加わり、『上穂(うわぶ)十一騎』と称して真田幸村の配下として伊達政宗と戦い、のち幸村と共に全員討ち死にした」、とありました。小さな石の祠が並び、明治時代に建てられた慰霊碑もありました。この付近はもと諏訪氏領ですから11騎は広義の武田騎馬隊の残党です。駒ケ根市のホームページにも出ており、11人の名簿まで記録されていますが、残念ながら伝承で、同時代史料は未発見のようです。しかしなぜ伝承に伊達政宗が出てくるのでしょう。
信長の甲州攻めで武田勝頼が自害したと中国筋で聞いた秀吉が、「無駄な事を。勝頼は降伏させ甲斐・越後を与えて東国攻めの先陣に使うべきだったのに」と残念がった話が『岩淵夜話』や『常山紀談』に見えます。東国の騎馬隊に勝つことができるのは武田騎馬隊だけだったと。
大坂夏の陣道明寺口で伊達政宗の奥州騎馬隊が大坂方を圧倒した時、これを食い止めたのが旧武田家臣で騎馬隊の扱いに慣れていた真田信繁(幸村)でした。その配下に上穂十一騎がいたのなら少人数とはいえ武田と奥州の騎馬隊が最初で最後の激突をしたことになります。騎馬628頭と記録される伊達の大軍を一瞬でも止め、押し戻したと伝えられていれば、上穂のイレブン、もって瞑すべしかと。
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