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ICHGAMI SHAMUSHO+市神社務所+
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小鍛冶の井戸   野崎 準 : 2017/07/24(Mon) 16:45 No.622
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10  「小鍛冶が井は山門の傍にあり。【三条宗近、名剣を打ちし時、ここに来ってこの水を用ひしとなり】 (『都名所図会』巻三 東山知恩院の章)

 岩波文庫の『都名所図会』には三条宗近に注記して
「平安中期の刀匠。橘姓。信濃守粟田藤四郎と称し、粟田口三条坊に住す。名刀小狐丸をはじめ幾多の名剣を作った」と書かれています。

 知恩院の巨大な山門、長い石段に登る手前の植え込みの中に石の井戸があります。初めて見た時なぜここに?と思ったのですが地図を見たら知恩院の北が広い範囲で「左京区粟田口」でした。京都の刀工の居住地です。山科方面から東山の日の岡越で京都に入る街道添いでした。

 知恩院の北側に鍛冶町の地名、粟田神社、相槌稲荷、もう一つ小鍛冶の井戸があったという仏光寺など刀剣愛好家の関心をひく史跡がありますが、市街地化が進み昔の鍛冶町の面影はありません。いつか鍛冶工房の遺跡でも出土しないかなと思っていますが。

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戦国時代の将棋   野崎 準 : 2017/06/28(Wed) 21:37 No.621
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8  中国文人の教養は「琴棋書画」とされていますが、この「棋」は碁のことで、将棋は西方起源、平安時代には日本でも行われ、いろいろな盤・駒・ルールがあり今の「本将棋」は江戸時代に確立したようです。

 戦国時代1には「軍学の参考に」と称して結構楽しまれていたようです。最近福井県一条谷朝倉氏遺跡など戦国期の遺跡から「中将棋」の駒が出土し、テレビ時代劇などでも戦国武将の将棋の場面に登場するようになりました。

 中将棋は駒が92(現在の本将棋は40)で、王将、飛車、角行、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵に加え「銅将」「麒麟」「獅子」「猛豹」「酔象」などの駒がありました。

 現在将棋の駒生産で有名なのは山形県天童市で江戸時代織田二万石城下町時代に武士の内職として始まったものだそうです。

 伊達政宗の家臣伊達成実の甲冑に「香車」の駒をデザインしたものがあり、「香車は前進しかしない」から後退しない強者を示すそうです。確かに現在伝わっている古い将棋のルールでも香車は前進しかしません。
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上穂十一騎のこと   野崎 準 : 2017/05/27(Sat) 20:49 No.620
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11  長野県駒ケ根市の光前寺に石仏を拝観に行った時、境内の説明板に「伊達政宗」の字が見えましたので驚いて読んで見ましたら、「大坂の陣で駒ケ根付近の領主千村氏の家臣の三男・四男11人が大坂方に加わり、『上穂(うわぶ)十一騎』と称して真田幸村の配下として伊達政宗と戦い、のち幸村と共に全員討ち死にした」、とありました。小さな石の祠が並び、明治時代に建てられた慰霊碑もありました。この付近はもと諏訪氏領ですから11騎は広義の武田騎馬隊の残党です。駒ケ根市のホームページにも出ており、11人の名簿まで記録されていますが、残念ながら伝承で、同時代史料は未発見のようです。しかしなぜ伝承に伊達政宗が出てくるのでしょう。

 信長の甲州攻めで武田勝頼が自害したと中国筋で聞いた秀吉が、「無駄な事を。勝頼は降伏させ甲斐・越後を与えて東国攻めの先陣に使うべきだったのに」と残念がった話が『岩淵夜話』や『常山紀談』に見えます。東国の騎馬隊に勝つことができるのは武田騎馬隊だけだったと。

大坂夏の陣道明寺口で伊達政宗の奥州騎馬隊が大坂方を圧倒した時、これを食い止めたのが旧武田家臣で騎馬隊の扱いに慣れていた真田信繁(幸村)でした。その配下に上穂十一騎がいたのなら少人数とはいえ武田と奥州の騎馬隊が最初で最後の激突をしたことになります。騎馬628頭と記録される伊達の大軍を一瞬でも止め、押し戻したと伝えられていれば、上穂のイレブン、もって瞑すべしかと。
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孔明にはなれなかったが   野崎 準 : 2017/04/27(Thu) 19:25 No.619
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8 述懐      藤田彪(東湖)
白髪蒼顔万死余。平生豪気未全除。
宝刀難染洋夷血。却憶常陽臼草蘆。

白髪、蒼顔万死の余。平生の豪気未だ全く除かず。
宝刀染め難し洋夷の血。却って憶ふ常陽の旧草蘆。

 幕末攘夷を主張して遂に実行されず、失意の内に詠んだ詩。老人となったが豪気(聞かぬ気)はまだ残る。夷人を斬ることはできないので、故郷水戸の旧草蘆(『三国志』の孔明が隠れ住んでいた南陽の草庵)に戻りたいと思う、の意。

 藤田東湖は安政二年の大地震で遭難死した時50歳でしたから老人でもないのですが、この時代は45歳ほどで職を退くのが普通で還暦まで生きるのは大変な時代でした。烈々たる憂国の詩で、水戸烈公徳川斉昭の詩と考えられたこともあるそうです。
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五匹の虎を退けよ   野崎 準 : 2017/03/30(Thu) 07:05 No.618
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11  さる展覧会で上杉家伝来の粟田口吉光の短刀「五虎退」を拝見しました。正親町天皇より上杉謙信公拝領とあり、さすがに見事な姿でした。古来「室町幕府の遣明使が佩用していた時、虎の群に襲われたがこの刀を抜いたら虎は退いて助かったので五虎退と称した」と言われています。

 五の虎というと夜の時刻を表す「虎五刻」があります。近世までは不定時制で夜は日没から日の出までを分割していましたから今の何時とは確定できませんが、夜の最後の時間「夜明け直前が一番暗い」時刻にあたります。「五の虎(寅)を退ける」と取ると「まもなく朝になる」、つまり「戦国の夜を平らげて国と民に平和な朝を迎えさせよ」という意味にとれないでもありません。

 関東管領の名誉を継いだ越後上杉氏に朝廷もひそかに期待していた、という事でしょうか?
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無題   真改 : 2017/03/08(Wed) 19:45 No.617
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1 一般社団法人菊池観光協会様

管理人の真改です。

投稿文につきましては、一陽来復掲示板へ転載致しましたので、
ご了承ください。m(__)m。
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削除   削除 : 2017/03/08(Wed) 11:09 No.616
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大阪の刀剣展   野崎 準 : 2017/02/04(Sat) 19:57 No.613
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8 大阪歴史博物館の「名刀の面影―刀絵図と日本刀の美」展を見てきました。タイトルから銘尽、押形集、鑑定書の類が中心と思っていましたら文献は数点のみで刀剣展示が中心でした。重文薙刀(無銘大和伝)・太刀粟田口則国(共に誉田八幡宮)、重文太刀包長(四条畷神社)、短刀長谷部国重(個人蔵)、府指定文化財太刀大和守安定・糸巻拵付(佐太天満宮)、館蔵の重美越前康継作南蛮鉄製短刀と南蛮鉄、月山貞一模造日本号槍の写、大阪新刀などで、一部は撮影OKでした。また河内国平刀匠による材料(兵庫県南光町上三河砂鉄、玉鋼)、製造工程見本(鍛錬法、土置)さらに、研ぎ、鞘(白鞘、塗り)、柄巻、鍔、三所物などに至る日本刀の総合展示でした。小道具の中に真鍋純平刀匠の文鎮が展示されていました。さすが近世の大商業都市大阪です。
大阪城天守閣では火縄銃の特集展示をやっていましたが、こちらは館蔵の堺鉄砲が中心で、大型の銃、大筒、馬上筒、李朝時代の鉄筒、幕末日本の脇差鉄砲、小型鉄砲などが珍しいものでした。

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Re: 大阪の刀剣展    田舎侍 : 2017/02/26(Sun) 17:11 No.614
1 いつも楽しく拝見させて頂いております。
これで知り大阪歴史博物館に行ってきました。

(大阪に来た事無い方、博物館ビルから大阪城の全体が上から見れ観光にもお勧めです)

重文薙刀(無銘大和伝)・・・柄の部分に鉄板を細く切り巻いていましたね。
よく見る江戸期の漆蒔絵と違い実戦向きの年代物は初めて見ました。
武運祈願の奉納 もしくは僧兵用? 
大切に遺している日本の寺社は素晴らしいです。
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Re: 大阪の刀剣展   野崎 準 : 2017/02/28(Tue) 09:06 No.615
8  大阪歴博で販売している小冊子『大阪新刀』は華やかな波紋の大坂新刀を解説した小さいながら立派な案内書でした。

 平成16年の刀剣展で出版されたものとあります。最近の「入場料の二倍の価格。重くて持ち帰りが大変」の中身の薄い図録より、このように展覧会の後もずっと販売できる手ごろな案内書の方がいいですね。
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