|
久しぶりに京都二条城を見学しました。ここ数年大手門などに覆屋をつけて修理しており、つい足が遠のいていました。 台風21号の「昭和9年の室戸台風以来」という暴風で二の丸庭園はまだ修復中、外堀沿いの並木や清流園内にも倒木や伐採の後が残されていました。
この城は徳川家康が慶長6〜8年(1901-03)にかけて京都の滞在館として築城、元和偃武の後寛永年間に増改築されて後水尾天皇の行幸を仰ぎ、江戸時代の数回の大火などを経て明治維新後は離宮、昭和14年京都市に下賜されて観光施設になりました。 現在は世界文化遺産、二の丸御殿は国宝、大手門・二カ所の隅櫓・諸門などが重文、二ノ丸庭園は特別名勝です。
大修理後に解説も一新され、本丸御殿では近世武家建築の他明治の離宮時代の追加(装飾金具を葵紋から菊紋に変える、天井画を有職文様とするなど)、本丸や天守台、諸門などにも新しい城郭史研究による説明板がありました。
昔の案内記には出ていたのに消えてしまったのは家康創建期の石垣は徳川再建大坂城の石垣のように、切石を使いながら隙間に割石を詰める初期の切石積み、寛永改修部分の石垣は隙間のない完成された切石積みということです。外堀の西側、二条堀川沿いの石垣などは古い積み方です。当時の城は火縄銃の射程を考慮して堀の幅は100m以上が普通なのにここの堀幅は10〜20m。城郭より居館の機能優先だったのでしょう。
また大きな地図で見ると分かりますが城の方位は昔からの京都の街路とわずかに食い違っています。これは平安遷都(794年)の都市計画は当時の北極星の位置を基準に、二条城は磁石の方位を基準としたからと言われています。数百年規模だと天の北極の位置も磁北もわずかに移動しており、慶長年間の磁北は今より東に偏位してほぼ真北を向いていたそうで、江戸時代初期に磁石を用いて方位を決め築城された各地の城や城下町にも同様の方位がある、と言われていました。
南蛮屏風でも見るように西洋人観光客が一杯でしたが、京都の観光地一般と同様武家文化の説明や刀剣武器のお土産品は少なく、説明も徳川氏の皇室崇敬、大政奉還、離宮としての大正天皇即位時の賑わいなどに重点がおかれていました。京都はサムライでなくミカドとお公家さんの都市だ、と言うのでしょうか。
|
[返信]
[修正]
[削除]
|