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ICHGAMI SHAMUSHO+市神社務所+
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バイキング時代の鉄製武器   野崎 準 : 2019/06/24(Mon) 22:23 No.670
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10  神戸市北区の異人館街を見てきました。内部公開されている洋館には元の所有者にちなみ、オーストリア、オランダ、イギリスなどの観光広報を兼ねた展示があり、復元・複製品や写真パネルが中心ですが楽しく見ることが出来ました。

 一寸驚いたのはデンマーク館にアンデルセン、トーベ=ヤンソン(『ムーミン』の原作者)と共にバイキングの文化が展示されていました。考古学の知識ではバイキングの本場はノルウェーやスウェーデンだと思っていたのですが、そういえばデンマークは海に面しているだけでなく街道や河川交通でヨーロッパ諸国とも交流があり、バイキングの中でも高い文化を持っていたようです。

スカンジナビアを中心にバイキングが優れた鉄の武器と造船・航海術をもってヨーロッパを席捲した「バイキング時代」は西暦800-1050年で、ほぼわが国の平安時代に重なります。
 北欧は鉄鉱石の産地でもありますが、バイキング時代には沼地に生成される水酸化鉄の沼鉄鉱、褐鉄鉱などを木炭の小さな炉で製錬、炉内の鉄の塊を鍛造して鉄素材を得ていました。炭素量の調整や、それによる硬軟の鉄を鍛接した水波紋のある長い剣を始め、戦斧、鉄の兜、鎖を編んだ甲冑などが作られ、造船用の鉄釘、錐や手斧などの工具も作られていました。さらに熱処理など炭素鋼の有効な利用から、バイキング時代を「鋼の時代の始まり」とする説もあるようです。

 神戸異人館のデンマーク館には縮小模型ながら構造のよく分かるバイキング船、その工具と、同様に復元された武器武具も展示されており、思いがけず北の鉄器文化に触れることができました。そういえば日本刀の技術の完成もほぼこの時代に重なります。不思議な一致ですね。
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戦国時代の家訓   野崎 準 : 2019/05/31(Fri) 10:17 No.669
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8 『続群書類従』を読んでいましたら雑部に「多胡辰敬家訓」がありました。多胡辰敬(たこ ときたか 明応六年1497-永禄五年1562)は尼子氏の家臣で、毛利氏との戦いで討ち死にしたという戦国時代真っ只中の武将です。この中に武士のたしなみとして;

 第一 手習学文(語学・学問)、 第二 弓(武術)、第三 算用(数学)、第四 馬乗(馬術)、第五 医師(医学)、第六 連歌・歌道、第七 包丁(料理、食事作法)、第八 乱舞(らんぶ・能)、第九 鞠(まり・蹴鞠)、第十 躾(しつけ・子弟の教育)、第十一 細工(技術)、第十二 花(華道)、第十三 兵法、第十四すまふ(相撲・格闘技)、第十五 盤ノウヘノ遊ビ(碁・将棋)、第十六 鷹、第十七 ニョウギ(容儀=服装)

とあります。戦乱の日々ですが武技は「武者ハ弓取。魔除けにも用いる」と弓術で代表とし、刀槍は出てきません。室町幕府の遺風で和歌、連歌、けまり、盤上遊戯など貴族文化もありますが、生け花、能などは武士の物で、儒学がないなど江戸時代の武士の教養とも大分違うようです。
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新元号に思う   野崎 準 : 2019/04/03(Wed) 10:36 No.668
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10  新元号「令和」発表の時、「万葉集の梅の歌の序から採用」とあり、すぐ「筑紫歌壇」だなと気がつきました。「梅花の歌三十二首並びに序」は『万葉集』巻五にあります。

 この巻は奈良時代の天平初期、筑前国太宰府に集まった歌人大伴旅人(大宰帥)、山上憶良(筑前守)、小野老(太宰少弐・「あおによし奈良の都は咲く花の 匂ふがごとく今さかりなり」を詠んだ人)らの作品が集り、「貧窮問答歌」や松浦佐用姫の歌などの名歌も含まれ、筑紫歌壇と呼ばれています。

 この時期に歌人が九州に集まっていたのは神亀五年(728)の長屋王の乱で後ろ暗い関係者が辺境に飛ばされていたためという説もありますが、旅人は平城京に戻り晩年には大納言にまでなります。

 天平二年(730)正月十三日、大宰帥の老(おきな)の宅での宴、旧暦なので盛りの梅を見ながらの歌会ですが、国際情勢危急の現在に酒を飲んで遊んでいていいのか?とも思います。

『万葉集』巻二十で大伴家持は
剣太刀いよよ研ぐべしいにしへゆ 清けく負ひて来にしその名を
とも詠んでいるのですが。
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『江談抄』と名剣   野崎 準 : 2019/03/19(Tue) 19:23 No.667
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9
平安時代後期、大江匡房の談話を藤原実兼が筆録した『江談抄』に
「剣 壺切
 壺切者為張良剣事。叉被命云壺切は昔名将剣也。張良剣云々。雄剣という僻事(ひがこと)也云々」。

とあります。壺切剣は皇太子の守り刀で、藤原氏から朝廷に献上された剣と言い、藤原頼長が藤原氏と血縁のない皇太子に「藤氏腹」ではないからと渡さなかった話が続いています。

 張良(?〜186BC)は中国・漢の高祖の側近で、始皇帝暗殺未遂や黄石公から軍学を学んだ話があり、漢の成立後も粛正されず天寿を全うした名将です。あまりにも時代が離れすぎ、献上したのが藤原冬嗣の子、長良だったのを誤伝したのでは、とも言われています。

 壺切剣は現在でも皇太子の守り刀として立太子式で引き継がれますが、平安時代以後数回火災で失われ、現在の剣は再生品との事です。
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柱の傷は応仁の乱   野崎 準 : 2019/02/25(Mon) 21:27 No.665
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11  世界文化遺産の国宝・重文が多くある京都市ですが、市街地には意外と古い建築はありません。大都市の例で火災が多く、「この前の戦争」応仁の乱(1467-77)以後も「焼失面積では応仁の乱以上」という「天文法華の乱」(1536)、江戸時代の数回の大火、幕末の「蛤御門の変」による「ドンドン焼け」(1864)などで失われてしまったのです。

 その中で奇跡的に残ったのが上京区の大報恩寺本堂で、通称千本釈迦堂、国宝建築で、鎌倉時代貞応年間(1222-24)ごろの建築、快慶作の釈迦如来像、十大弟子像などの仏像も多く残されています。

 この本堂は内陣を拝観できますが、多数の円柱に矢の当たった跡の穴、刀で斬りつけた傷が多数のこっています。千本通りの東、堀川今出川あたりが応仁の乱の西陣、山名宗全邸跡、その更に東が細川勝元の拠った室町幕府跡で、度重なる応仁の乱の激戦によるものと伝えています。文化財見学会でご案内の先生方から、「人間の頭から心臓の高さに矢跡、刀傷が集中している」「応仁の乱のころから一般化してきた槍の傷もある」とご教示いただきました。

 京都には東福寺や建仁寺などにも矢傷のある門があり、平氏の館の門、六波羅探題の門などと伝えております。京都御苑の蛤御門は鉄炮傷で有名ですが、古い戦争の痕跡にも注意したい物です。
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[→665] Re: 柱の傷は応仁の乱   田舎侍 : 2019/02/27(Wed) 16:51 No.666
1 いつも楽しく見せて頂いています。
こういうの大好きなので大切に遺してほしいですね。

保存改修耐震も大事ですが、姫〇城や平〇院など あまり綺麗になると少し悲しくなります。
関係者の苦労も知らずにと言われればそのとうりですが難しい問題ですね。
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尋常小学校の歴史図録   野崎 準 : 2019/01/26(Sat) 17:51 No.663
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10  古書店で大阪府教育会編・京都帝国大学教授西田直二郎博士監修『尋常小学国史附図』上巻(昭和7年・1932)を見つけました。
当時6才から就学の尋常小学校の3.4年で学ぶ「国史」の参考図録です。

 時代が時代なので天岩戸神話、出雲大社、因幡の白うさぎから天孫降臨、神武天皇東征・・・と始まり、戦国時代の始まり、川中島合戦までの地図・イラスト集です。日本歴史の基礎ですから、事項と人物だけで文化史・社会経済史などの記事はなく、日本刀や弓矢の記事もありません。 

 日本武尊、坂上田村麻呂、和気清麻呂、楠木正成、村上義光、護良親王・・・と戦後の歴史教科書からは消えてしまった人物が一杯で、何というか今の歴史では語られない、その代り日本人として何か大切な物も消去してしまったのではないかな、とも思いました。

 イラストは当時の考古学、有職故実・武家故実に忠実で神様以外にはおかしな復元はないようでしたが。
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[→663] Re: 尋常小学校の歴史図録   波平 : 2019/02/01(Fri) 15:46 No.664
1 野崎先生、楽しそうな本を見つけられましたね。
ちなみに現在の日本史Bの教科書にもある名前は坂上田村麻呂・和気清麻呂・楠木正成・護良親王(明治生まれの祖母は「もりながしんのう」と言っておりましたが現在は「もりよししんのう」で併記されています)あたりでしょうか。さすがにイラストや写真は教科書には掲載されていません。明治の教育は独特で祖母健在の頃は「鎌倉宮に詣でては尽きせぬ親王の御恨みに悲憤の涙ながすべし」と教科書の一文を諳んじて何度も聞かせられました。
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京都山科義士まつり   野崎 準 : 2018/12/15(Sat) 22:05 No.661
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8  師走も半ばを過ぎました。

 京都市山科区の「義士まつり」を見てきました。山科区は大石良雄が閑居し、祇園の一力茶屋に通いながら討ち入りの作戦を練った所、という大石神社があり、京都の赤穂藩浅野家菩提寺である瑞光院が昭和37年に移転してきたゆかりの地、とのことで昭和40年代から町おこしに始めた祭だそうです。東京や赤穂のように映画俳優を招いたりはせず地元の方々だけだそうです。

 黒の火事装束に名前入りの白襷の大石良雄以下47人がJR山科駅の北、山科毘沙門堂から出発、瑞光院、駅前通りを南下し休憩・アトラクションののち大石神社で勝ちどきを上げて終了だそうです。毘沙門堂の参道で拝見しました。

 ポスターに「協力・東映太秦撮影所」とあり、衣装小道具を提供しているようでした。ただ撮影した画像を見直しますと、槍を持つだけで帯刀していない人、大刀だけでしかも「落し差し」の人がおり、大小を差していても帯の同じ位置に差し大小が平行な人などがいました。時代劇の本場がこれでは・・・。

 まあ、昭和30年代までは12月は演劇も映画も『忠臣蔵』でしたが、「史実は集団テロ、仇討ち後に泉岳寺で潔く切腹しなかったのは英雄扱いと仕官を期待していたのでは。しかし全員体のいい死罪。幕府内の権力争いに利用されただけ」、などと言われて消えてしまいます。

「君、君ナラズトイエドモ臣、臣ナラザルベカラズ」、本人の失策で不名誉な死に方をした暗愚の主でも忠臣なら命を捨てて復讐の義務があるという忠道の実行、とか「俺の目を見ろ何にも言うな、男同士の胸の裡・・・」とかの世界も遠い昔。時代劇そのものが滅びつつあると思いました。

 来年もいい歳でありますように。
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Re: 京都山科義士まつり   真改 : 2018/12/30(Sun) 09:33 No.662
1 先生、今年も大変おせわになりました。

来年もよろしくお願い致します。

良いお年をお迎えくださいませ。
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日本刀完成前夜   野崎 準 : 2018/11/29(Thu) 21:19 No.660
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11  平安時代も中期に近い寛和二年(986)、右大臣・東三条殿藤原兼家とその子、粟田殿藤原道兼は時の帝、花山天皇を山科の元興寺で出家退位させ、兼家が外戚である懐仁親王を次の帝に据えます。

 『大鏡』には粟田殿に導かれ御所を抜け出した花山帝の行列が安倍清明の館の前を通ると晴明が「天文に帝王退位の相が出た、式神一人すぐ内裏へ参れ」と命じる声が聞こえ、また鴨川の堤あたりで

 「東三条殿はもしさることにや(政敵が粟田殿も出家させてしまう)したまふとあやふさに、さるべくおとなしき人々、何がしかがしといふいみじき源氏の武者たちこそ御送りに添へられたりけれ。京のほとりはかくれて、堤の辺よりぞうちいでて参りける。寺などにてはもしおして人などやなしたてまつるとて一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける

とあります。この源氏の武者とは多田源氏の源満仲、その子源頼光とその配下と考証されています。摂関政治の確立期に、一方では武士団が力をつけつつあった時代です。

 花山帝出家後、懐仁親王ご即位、兼家は関白・太政大臣となり改元、「一条天皇の永延(987-989)」となります。
 ご存じ三条小鍛冶宗近の作刀した時期です。鴨川をこえ粟田口を通り山科に向かう行列を警護していた武家源氏の武士も三条付近で作られた太刀・刀を帯びていたのでしょう。

 兼家の関白職は子の道兼に受け継がれますが、就任直後に急死、道兼の弟藤原道長が天下を握り、「この世をばわが世とぞ思ふ・・・」World is mineと詠む摂関政治の全盛時代となります。

 日本刀の技術が完成されたとされる時代にはこういう背景がありました。
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千年目の満月   野崎 準 : 2018/11/22(Thu) 14:45 No.659
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10  今日(平成30年11月22日)の京都新聞に
 寛仁二年(1018年)に権力の絶頂だった藤原道長が土御門第で「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなきと思へば」と詠じてから今年の旧十月満月が今日、22日で千年目である」とありました。

 この時、道長の館「土御門第」を再建改修したのが武家源氏の源頼光で、道長が政敵や兄を蹴落として出世していた時代の永延年間(987-989)に三条小鍛冶宗近らが反りのある太刀、日本刀の技術を完成、とは続く武家の時代を予測させます。その代表作が「三日月宗近」と称されたのも何かの因縁だったのか。

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快刀乱麻とはいかない   野崎 準 : 2018/10/29(Mon) 14:24 No.658
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8  中国宋時代の類書『錦繍萬花谷』の巻三十「剣」に
 「秋水 越絶書太阿剣其色如秋水」
とありました。刀剣関係で「なぜ研ぎ澄まされた刀を秋水というか」に「越絶書にある」と言う出典はこれのようです。
 
 楚の太阿(泰阿)の剣というとあの「楚王が城壁の上で抜刀しただけで包囲していた晋の三軍が全滅した」という核兵器級の恐怖の名剣です。

 『錦繍萬花谷』は宋時代に印刷され金沢文庫など中世日本にも伝来して読まれていた本で、中世の『尺素往来』でも「干将、莫耶、吹毛、太阿」が中国の名剣として出てきますから、太阿のごとき秋水、で広まったのではないか、と思いました。

 ただ現在普及している『越絶書』巻十一外伝宝剣には「太阿剣其色如秋水」という記述はないのですね。「其光輝如水」のような記事はあるのですが。引用するとき『越絶書』の原文を見ないで孫引きしたのでしょうか。

 中国の文人は「古典とは暗記するもの」で、それを文章で記録すると自然に誤字・脱字・当て字が多くなり、古典には異本が多く校訂が必須です。たまたま宋時代に多く読まれていた『越絶書』では「秋水」になっていたのかも知れません。

 秋水をもって快刀乱麻とはなかなか行かないようです。
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