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戦国時代末に蒲生氏、上杉氏に仕えた岡野左内という武士がいました。生没年不明で、上杉景勝に仕えていた時、関ヶ原の戦い直後から翌慶長六年(1601)にかけ伊達政宗が上杉領福島・梁川を攻めた時の活躍で知られます。
阿武隈川の支流松川に伊達郡本陣と二万の軍勢を見た岡野は、伊達の軍勢は渡河の支度をせず小荷駄を遠ざけている事から上杉軍の渡河を待って迎え撃とうとしていると判断、二十騎ほどで渡河し、大軍に取り巻かれての苦戦を犯して戦いました。『常山紀談』は
政宗勇み進んで追いかけられしに、岡野猩々緋の羽織着て鹿毛なる馬に乗り支え戦いけるを、政宗馬をかけ寄せ二タ刀切る。岡野返り見て政宗ノ兜の真っ向より鞍の前輪をかけて切りつけ、返す刀で兜のしころを半ばかけて切り払う。政宗刀を打ち折りてければ、岡野すかさず右の膝口に切りつけたり。政宗の馬飛び退きてければ、岡野、政宗の物の具以ての外見苦しかりし故、大将とは思いもよらず、続いて追い詰めざりしが、後に政宗なりと聞きて、今一太刀にて討ち取るべきにとて大いに悔やみけるとなり。
まもなく上杉氏は米沢に転封、岡野は伊達氏からの誘いを断り蒲生忠郷に仕えます。武器・武具以外には浪費せず、質素な生活に甘んじましたが死に臨んで蒲生忠郷に、「金子三千両、正宗の刀を遺物に献じ、忠郷の弟中務にも金子三千両、景光の刀、貞宗の小脇指を形見に・・・人に貸しける金銀の手形証文を焼きすて」た、と言います。常に戦場の覚悟、武器武具の用意、名刀の収集、これが戦国武将の一つの理想の生き方だったのでしょう。
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