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小宮山楓軒『楓軒偶記』文化四年(1807)に「名将の刀痕」として:
永禄五年、三河国で一向一揆が起きたとき作岡の戦いで神君(徳川家康)は手づから槍をとって賊党の浪切孫七郎を傷つけた。浪切は馬を飛ばして逃げた。後年神君が浪切に「先年(作岡の)大善坂で余は汝を槍で突いたが、残っているか」。浪切は「それは別人でございましょう。私ではありませぬ」。神君はこの答で浪切を憎まれたという。 慶長五年、会津陣で仙台政宗は刀を以て岡左内を斬った。後年政宗が左内にあった時「予が刀傷は猶あるか」と聞いた。左内は「その陣羽織は今もございます。名将の太刀の痕なので錦繍を以て修補し家の宝としております」。政宗は大いに喜んだ。 思うに浪切にはなお賊心があって嘘を言ったのである。神君の憎まれたのも尤もな事だ。
原文は難解な漢字が多いので現代語訳です。慶長五年に会津の上杉景勝と伊達政宗が戦った時、上杉方の武将岡左内が伊達家の本陣に斬り込み政宗と斬り結んだ事件はさまざまな伝承がありますが、これもその一つです。上杉方の宣伝か左内を豪傑、政宗を田舎大名扱いしている逸話が多いのですが、これはスマートな話です。
今年も月刊できてほっとしています。来年も頑張りましょう。
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