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前記『明治新刻国史略』の西南の役、明治十年(1877)三月二十日の記事に:
「田原坂ヲ抜ク。・・・田原ノ賊、険ニ拠リテ七塁ヲ築キ我ガ軍ヲ伏撃ス。砲弾霰ノ如シ。陸軍大佐福原和勝、少佐吉松秀枝等奮戦シテ之ニ死ス。是ニ至リテ近衛歩兵ニ東京鎮台ノ兵ヲ合セ、更ニ巡査若干名ヲ以テ抜刀隊ト為シ此ヲ軍後ニ置ク。各銃槍ヲ以テ雨ヲ衝キ谷ヲ渉リ二俣ニ向フ。二股ハ田原ノ間道也。賊亦日ヲ待テ一戦ヲ欲シ決別ノ宴ヲ張ル。宴ノ未ダ酣(たけなわ)ナラザルニ我ガ兵既ニ迫リ、吶喊(とっかん)突入ス。縦横ニ刺殺シ賊軍大ニ乱レ銃ヲ棄テ走ル。我兵追撃シ之ヲ鏖(みなごろし)ニス。田原ノ賊、風ヲ望ミテ壊走ス」。
「♪維新このかた廃れたる日本刀の今更に、また世に出づる身の誉れ」・・・の警視庁抜刀隊が一行だけ出てきました。一般には応召兵では薩摩氏族の抜刀突撃におびえる、と警察官になっていた旧賊軍の氏族が、薩摩への私怨も果たそうと参加したように言われていますが、実際の隊員は政府軍側の薩摩氏族が中心だったようです。
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