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先日、城郭関連でお世話になっている八丁堀さんと再々度の大仙山攻城を敢行した。
今回の登城経路は、黒備えさんから頂いた情報により大仙山南西部を起点とする林道を利用して山頂部付近まで前進、そこを後拠として城域内の探索を開始する。
ちなみにこの登城道は軽トラか軽四駆などトルクがあり小回りの効く軍馬が適している。ホイルベースが長く、トルクのない普通車での進入は途中でスタックする可能性が高いことを付記しておきます。
いつもながら行き当たりばったりの私に対して、八丁堀さんの周到な地図と衛星写真を駆使した資料収集、とりわけ卓越した地形観察により、攻撃目標を限定した無駄のない作戦展開となりました。
さわさりながら急峻な大仙山の尾根上に展開する遺構群発見までには熾烈を極め、弦や草に足を取られるのは常で、枯葉という伏兵には「滑る」というおまけ付きでした。
前回記述の曲輪2の北方向に展開する平場とその下にある二段平場の確認と堀切2と堀切1との間にある窪地風の削平地の検討と動線について現地で確認した。
また堀切1に存在する二重堀切のうち片堀切の尾根側での不自然な収束状態に時代的古さが見てとれ、本来二重堀切として普請されたものではなく、もう一方の堀切を普請する際に改修が行われ、そのまま残存させられたものではないだろうか。
八丁堀さんが、地形の事前分析により、金毘羅宮の鳥居前から北側の尾根上に遺構がある可能性を示唆されていたので、この尾根にアタックを敢行する。するとすぐに、平場を確認し一応曲輪遺構として位置付ける。更にそこから尾根を下ると自然地形とも竪堀とも見える場所に出る。
ここから左右に尾根が分岐し、私は右側の尾根、八丁堀さんは左側の尾根を相互に連絡を取りながら前進、右尾根を横方向へトラバースすると眼下に3段の半月状の曲輪遺構を発見、すぐに八丁堀さんをに連絡、到着待って段曲輪ではないかと意見を同じくした。
ここより下部は更に斜度が増し、人の出入りを拒むかのような地形で前進不能状態になるが、これ克服し単独でさらに下方に進むと大岩を介した堀切を発見、半ば滑落気味に下り、堀切を確認すると同時に眼前に土塁遺構と櫓台状の土盛を確認、ここまでの間に確認した削平地とは全く異なる戦国期を思わせる遺構である。
八丁堀さんの到着後に精査を開始、数分後に八丁堀さんが櫓状遺構の基部に石積と考えられる集石の存在と、そこから10m程離れた尾根右部分で井戸跡らしき遺構を発見した。
大仙山頂上部の城郭遺構の鞍部遺構との共通性を感じたが、少々距離があるので八丁堀さんと意見交換の末、単独遺構とし「大仙山北砦」という位置付けをした。
【写真左】 大仙山北砦、土塁状と櫓状遺構です。この土盛りの基部に列をなした石積?と思われる礫群を確認した。
【写真中】 北砦の大岩を利用した切岸と堀切(八丁堀さんの雄姿を後ろから、足元付近が堀切となっている。)
【写真右】 井戸跡と思われる遺構です。この山脚部分には小川が流れており水の確保には不自由さは感じられない。それではこの井戸と思しき遺構はと考えると「中田正光先生著」の「村人の城・戦国大名の城」や「藤木久志先生著」の「城の隠物と戦国誌」の記述が思い起こされる。
たかが山城、されど山城、今回の発見は個人的には「大発見っと思っています。」、専門に研究されている先生方や城郭愛好者がスルーしていた山城、この城に着目された八丁堀さんには深く敬意を表します。 まだまだ、掲載していない画像などがありますが精査の末にアップしたいと考えています。
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